2013年11月30日土曜日

善意は有料である




「善意は有料である」


旅好きの方は1度くらい、そんな経験をされたことがあるのではないだろうか。

短期だろうが長期だろうが、特に「観光地」と呼ばれる場所を歩いているとき、いわゆる「スレた」奴から善意の対価に金を求められる。

自分の体験から具体的に引用するなら、

・目的地まで親切に案内してくれたと思ったら「金をくれ」
・ホテルを紹介してやるから「金をくれ」
・今写真撮っただろ「金をくれ」
・安いツアーを組んでやるから「金をくれ」
・お前を助けたから「金をくれ」

などなど、数限りない。「とりあえず言っちゃれ」的テンションから「金よこすまで離さねえぞコノヤロウ」的テンションまで、相手がどれほど真剣に金を要求してるのかはその時々だが、大抵コレをされるとこっちは完全に冷めてしまう。


「善意は無料である」


この疑いすらしなかった前提を打ち砕かれるのだから、旅中は「善意」そのものに神経質になることもあった。妙に親切だと却って怪しく感じられてしまい、結果本当にただの「イイ奴」だったパターンも数えきれないほどあった。

それだけにより一層、「金くれ」を言われると腹が立ち、悲しくなる。そもそも日本に生まれ日本で育ち、「他人を疑う」という行為そのものに慣れていないので、結果はどうあれ単純にそれはかなりの心労を伴う。


だが、冷静に考えると、自分の考え方にも同様に疑うべき要素はあるんじゃないか、と時折考えた。

まず僕は貧困を知らない。現象としてのその上辺は知っているつもりかもしれないが、それが形成する人格だとか精神だとか思想なんかは、きっと完全に理解することはできない。これは日本人である以上、そういうものだと思う。どんなに貧しくても食べ物すらないことはないし、仕事だって選ばなければある。少なくとも、死にはしない。

ただ、発展途上国や第三世界と呼ばれる国々の貧困地域では、ホントに死ぬ。人はあっさり死に得る。そこには彼らなりの相互扶助の慣習やら形態はあれど、生きる努力が必要とされ、それは日本人には縁遠いものだ。

善意悪意は関係なしに、価値観の激しい衝突は往々にしてネガティブな感情を産む。そんな環境がもたらす彼らの価値観と、家一軒にトイレがあるのが当たり前な僕らのそれとが反発するのはある意味当たり前だ。だから「金を持ってるやつから金をもらって何が悪い」という考え(ホントにそう思ってるのかは知らないけど)は、その土地においては成り立つ。

僕らにとっての「善意」の対価は「感謝」だと、無意識下では誰しも思っているはずだ。
「感謝の為の善意」となるとロジックがこじれ始めるが、誰だって親切にした人から無視されたり「fuck you!!」なんて言われたりしたくない。

そう考えた時に、僕に「金をくれ」と言ってきた彼らは、善意の対価に感謝という具現化できない感情を金に代替することを求めていた、と考えれば、やや一方的な決めつけだがこれは成り立つのかもしれないし、可能性として考えられなくはない。「善意は有料」、僕らにとってそれは「悪意」に感じられるのかもしれないが、場合と目的によっては効率化された「善意」の形なのかもしれない、と。

ここまで書くと、もはや善意というのが何なのか分からなくなる。そもそもの定義もそうだし、善意=悪意とすら成り得る事実もそうだし、答えは未だに出ない。



旅を通して多様な価値観と思考を学んだつもりだ。そうやって吸収していくことは良いことだと感覚的に思っていた。

だが、実際に多様な価値基準を持ち過ぎると、どの基準で物事を測るべきか分からなくなる時がある。言い換えれば何が正しいのか分からなくなる。

人はある方向にのみの価値観を持っている方が、あるいは「楽」なのかもしれない。同時に、雑多の基準の中から自らのそれを選別する作業は決して「楽」ではない。

何が幸福か、何が不幸か。どれが善で、どれが悪か。自分と向き合うという贅沢が内包する辛さは、そこにあるのかもしれない。


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