2014年5月23日金曜日

「サハラに死す」を読んで思ったこと。









「サハラに死す」という名著がある。



前人未踏の熱砂の海に単身で挑み、志半ばで青春の幕を閉じた幻の名著 。サハラ砂漠は古くから交易路が発達し、主にトアレグ族によるキャラバンが盛んだった。
だがそれは主に縦断であり、横断は達成されていなかった。 

上温湯隆は、1973年1月25日、モーリタニアの首都ヌアクショットを出発、1頭のラクダのみを連れ、ガイドなしという挑戦だった。 しかし、マリでそのラクダが死亡して中断、ナイジェリアのラゴスで時事通信社ラゴス支局に身を寄せ、体力の回復と資金調達に当たる。 4月、横断再開のためラクダを購入してラゴスを出発、メナカよりの手紙を最後に消息を絶ってしまう。 そのとき発見された手記を元に長尾三郎が構成を担当し、『サハラに死す』が出版された。 当時、大きな反響を呼び、若者からは「バイブル」とまで言われた。

サハラ砂漠は東西7000キロ、横断するルートはなく、途切れ途切れにあるオアシスを点と点で結ぶしかない。この前人未踏の単独横断に、上温湯隆は一頭のラクダとともに挑み、しかし、志半ばで消息を絶ってしまう。サハラ砂漠に青春のすべてを賭けたひとりの青年の、その想いを描いた不朽の名作である。

       (amazon上記リンクより)





随分と古い本だが、昨年文庫版が再版されたということで、僕もようやく購入に至った。

1973年、当時21歳の上温湯氏の手記を構成・編集したという本著は、旅行記というよりは氏の内面精神のフィルターを通してサハラを読む、といった趣の強い、悲壮なまでの露骨に切迫した生の記録だ。

「帰国して大検をとる」「やりたいことが山のようにある」「公害問題に取り組もう」「国連に入りたい」「母親が恋しい」etc...

作中には、同世代として共感できるそんな彼のむき出しの葛藤や夢や感情が綴られている。それだけに、彼の死を以て幕を閉じるこの物語は、読後に友を亡くしたかのような喪失感を伴った。

40年前のアフリカ。間違いなく、僕の知るそれではない。おそらく、当時のアフリカを旅するというのは、相当にタフだったはずだ。比較できるものではもちろんないが、金を使って命の危険すらさほど感じない生温い旅をした自分がなんだか情けない。






内容についての大量のレビューや考察は、今も尚ウェブの海を漂い続けているので、敢えてここで僕が再度書き加えるつもりはないが、後書きの解説が大変素晴らしかったので、少し紹介したい。




––––人は誰でも人生に何かを求めている。自分の人生に特別な何かが起きると期待している。(中略)

もし可能であるなら、私は自分だけの要素で自分の身体を満たして爆発させてみたい。死によって有限を宣告された人生という残酷な時間の流れのなかで、自分という人間がたしかにこの世に存在していることを自分の手で確かめてみたいのだ。それができなくて、なんのための人生だろう。(中略)

冒険という行為は命知らずな無謀な人間による特殊な所業なのではなく、古来よりあらゆる人間にとって、生きていることを希求するためにとられ得る象徴的な行動様式のひとつであった。(中略)

冒険の物語とは、どこまでいっても土地の物語ではなく冒険者の物語である。上温湯隆にとってサハラ砂漠は単なる旅の途上で出会った舞台に過ぎなかった。彼が望んでいたのはサハラ砂漠ではなく、サハラ砂漠という真の自然が与える苦難であり、その苦難を乗り越えることにより獲得される生感覚だった。生きているという感覚を身体で味わうことにより、冒険者は世界と自分の距離関係をつかむことができる。地球における自分という存在の居場所が少しだけ分かるのである。(中略)

人間がこの世に存在する限り冒険の物語は永遠に続けられる。冒険に必要なのは舞台ではなく、生きているという経験を希求する若者の情熱なのだから。たとえ地球から地図の空白部がなくなり、GPSや衛星電話が普及して便利になり、机の前にいながらにしてインターネットですべてが分かったかのような錯覚を体験できるようになったとしても、冒険をする若者がこの世からいなくなるとは私には思えない。生きているという経験を求める個人の情熱は、必ずや自然の中に未知の舞台を見つけ出し、生と死の境界線に身体を潜り込ませ、死を自らの生のなかに取り込もうと目論むに違いない。だから万が一、若者が冒険をすることをやめるときがくるとしたら、それは地球から未知がなくなったときではなく、若者から情熱や探究心がなくなったときなのである。––––



少なくとも僕にも彼のような気持ちで旅に出た節は、確かにあった。それをやらなければ自分の人生など価値がないと思っていたときがあった。その思いが休学の1年でどれほど消化されたのは分からないが、僕にとってのアフリカは無理矢理に見いだした「未知」で、生きているという実感を求めていた。そして事実、旅の道中で「ああ、今、俺は生かされてるんだな」と感じることが何度もあった。



渇きを知り飢えを耐え、灼熱の大地に汗をこぼし極寒に震え、そんな生々しい経験の全てを突き詰めるのには人の生は短すぎるのかもしれないが、自らを賭けて勇んで飛び込まないと見えてこない本物はあるのかもしれない。

「
若すぎる情熱」だとか「無謀」だとか表面的で一方的な批判はやや的外れに感じる、そんな想いを咀嚼しやすく解説してくれた後書きだった。20代前半の今、「into the wild 」と並んで、読んでよかった一冊だ。







1 件のコメント:

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...