2012年4月5日木曜日

サ   ハ   ラ   砂   漠 (←行間で砂漠の広大さを表現する試み)


グルミマを出てメルズーガ行きのバスに乗り込んだ。メルズーガはモロッコ右下の最果ての地。サハラ砂漠を目指す人々で賑わう小さな町だ。

当初、ここでラクダツアーに申し込みサハラを堪能する予定だったが、スペイン人観光客が多い週だったようで、ラクダの数が足りず、加えて天候が不安定だったことから、ラクダのまつげを拝むのは諦めた。

つくづく観光に縁がないな、なんて思いながらも、これからエジプト・ナミビアが控えてるし、と自分を納得させた。



宿から砂漠までは緑のオアシスを越えてすぐ。到着翌日、早速砂漠に足跡を残しに行こうとすると、遠くに茶色い霧のようなものが見える。

なんだろう

そう思っていると、「それ」はどんどん近づいてきて、瞬く間に建物を飲み込んでゆく。




初めて見る砂嵐だった。

近いな、と思ってから飲み込まれるまではすぐだった。まるで土砂崩れが平行に移動してきたかのような光景。青空がどんどん飲み込まれていく。

砂風吹き荒れる中、一瞬だけテラスに出てみた。顔をたたきつける風と砂。さっきまでの空はなく、大気が砂色。違う惑星にいるみたいだった。

自然の猛威。これは適わない。和辻哲郎が人間の気候的性質について論じていたが(確か)、砂漠の民は「攻撃的」になる、というのもなんだか納得がいく気がしてしまう。



翌日、昨日の砂嵐はどこ吹く風と、嘘のように晴れ渡った青空。



砂漠の足跡はすべてかき消され、なにもないシルクのような砂漠が広がっている。中学校の美術の教科書で見たミロのビーナスを思い出した。曲線美。



ときどきフンコロガシを見かけた。砂に軌跡を描きながら、転げ落ちぬように、ゆっくりゆっくりと、カサカサ動いている。ちっぽけだが力強い。




歩き始めた時こそ早朝で肌寒かったが、除々に強くなる日差しが肌を焼くように強い。これでまだ4月の頭とは信じがたい。

音楽を聴いていたが、途中から砂漠の音に耳を澄ませた。

よく見ると、砂漠の表面は微粒子のような砂が絶えず風で動き続けている。こうやって大小様々な砂丘が出来上がっていたんだろうか、そんな果てしない時間に想いを馳せる。諸行無常。



宿のテラスから見えた一番大きい砂丘に登頂したのは歩き始めて1時間後のことだった。砂に足がとられ思うように進まない。足跡が周辺の砂をあり地獄のように飲み込んでいた。

砂丘がつくる影で凹凸は分かるが、あまりになめらかな風景で、遠近感が麻痺してくる。



ゆっくり頂上で読書でもしよう、などと思い、宿に置いてあった「神様のカルテ」なる小説を拝借してきたが、如何せん風が強く、座ると顔を叩きつけるように砂が舞っていて、2分で諦めた。

頂上から町が一望でき、その反対側には永遠に続くかのような砂漠が広がっていた。





さらに翌日。日本から持ってきた小瓶にサハラの砂を詰めようと、再び砂漠へ繰り出す。少々曇り気味だが、歩くには好都合、そう思っていると振り出す雨。

雨宿りできる場所を探すも、ここは砂漠。あるのは砂丘だけ。

ポケットのデジカメとiPodを気にしつつ、歩き続ける。雨が砂漠をドット柄に変えていくのがなんだかお洒落。

気づくと、前日の砂丘登りで筋肉痛の体を引きずりながら、再び頂に登っていた。

雨上がりの空の青。

松尾芭蕉は「静けさや岩にしみいる蝉の声」と詠んだが、「静けさや砂にしみいる雨の音」だなあ、なんてくだらないこと考える。雨の砂漠も悪くない。そんなこと思いながらしばらくの間立ち尽くした。



宿に戻り、テラスで濡れた服を乾かし、靴の中の砂を落とそうとしていると、先ほどまで立っていた砂丘に虹がかかっている。うっすらと、意識しないと気づかない幻のような虹が、確かに見えた。



これでよかったんだ

ラクダは乗れなかったしメルズーガはとんだ無駄足だったかな、なんて思ってたけど、虹を見てたらそんな風に思えた。

フェズへ向かう夜行バスを待っていると、もうすぐ夕日、みたいな太陽が雲の切れ間から顔を覗かせた。



綺麗。素直にそう思えた。心が洗われるようだった。

そうしてバスは次の街へと走り出した。洗われた心は、前の席に座ったスペイン人カップルのオールナイト淫行を眺めてるうちに淀んでいった。











追記

こっちでもシーツみたいなの着てます。


にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村
フェズ一瞬で飽きちゃったんで、シャフシャウエン行ってみようと思います!

0 件のコメント:

コメントを投稿

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...