2013年6月28日金曜日

「なんとかなるのだ」




それは僕の旅史上、いきなり上位に食い込んでしまった程にキビシい移動だった。


マラウィの首都、リロングウェ。

ここに到着したのは3日前だが、一国の首都とは思えぬその混沌っぷりには大いに驚かされた。バス停では常に人々が行き交い、フロントガラスのないトラックが爆音のクラクションを轟かせ、所狭しと同じような品揃えの露店がひしめいている。道を一本はずれれば、当然のようにそこは未舗装で、いたる所に捨てられた雑多のゴミが為す地層の脇では、人の良いオッサン達がごった煮のような飯を食っていた。5分も歩くと小さな川があり、赤ん坊を背負ったアフリカン・ママがこぞって洗濯に勤しんでいる。その隣には立派な造りのモスクが聳え立ち、夕時のそんな景色は何処か哀愁を帯びていた。

俄かには一国の首都と信じ難い、アフリカの田舎に有りがちなそんな光景を前に、「あのォ、ここホントにリロングウェですか?」と僕が三度通行人に確認したのも致し方のないことである。

リロングウェではミハラとオギノ、2人の旅の相棒と再合流を果たした。僕がゾンバで1週間を過ごした間、彼らはマラウィ湖に浮かぶ孤島・チズムルでのサバイバル生活を続けたそうで、「芋ばっかり食ってたら変な色のウンコが出た!」などとさも嬉しそうに語っていた。芋ばかり食って頭がオカシくなっていたに違いない。




その日の朝、長らく滞在したマラウイを発つことは前夜のうちに決めていた。が、そういう夜に限ってどうにも話は盛り上がるのだ。会話が弾めば、それがどんなに実りの少ない下世話なものであっても、酒はあれよあれよと進むのは道理である。結局オギノが床に就いた後も、僕とミハラはひたすらに「自分の結婚式にはどのレベルの親しさの友人までを呼ぶか。ならびに、それぞれの場合における良い所と悪い所について。」というテーマをさも高尚な命題を語らっているかのような面持ちで論じ合った。お互いに「年」の単位で彼女がいないだけに、如何にこれが不毛であるかというのは明白過ぎる程である訳だが、大抵僕らは日夜こんなことばかり話していた。

当然の帰結ながら、翌朝は寝坊。南半球に位置するマラウィは夏真っ盛りで、9時にもなると随分日も登り、テントの中はバカみたいに蒸し始める。気怠い体を引きずりながらテントを這い出て、シャワーを浴びた。風呂無精の僕は、実に一ヶ月ぶりの「ホット」シャワーであった。


ようやく国境行きの乗り合いバスに飛び乗ったのは夕方だった。今や恋しくすらある、実にのびのびとした、高等遊民も羨ましがるほど時間にとらわれない生活である。

アフリカ諸国に於いて、ちょっとした移動には専らハイエースが用いられる。大型バスももちろんあるのだが、バンの方が数も多く移動に小回りが効くのだ。そんな中古のハイエースに当然の如く10人以上が詰め込まれる。僕は通勤ラッシュの山手線を経験したことは無いが、すし詰め具合で言えばなかなかに良い勝負をするだろう。乗せた乗客分だけ利益が出るので運転手も躍起になって詰めるし、乗客もそれを当然として受け入れている。例え隣に自分の2.5倍は体積がありそうなアフリカンママが座っても、自分の足下に野菜やら荷物やらをギッシリ置かれようとも、見ず知らずの黒人の子供を膝に置かれようとも、狭すぎて助手席の窓から両足を外に出さなければならなくとも、頭上で鶏がけたたましく喚こうとも、払う金額は一律だ。

こう書くと、移動の連続である旅という行為がSMの世界かのように思われるかもしれないが、必ずしもそんなことはない。今まで培ってきた「常識の壁」が打ち砕かれ、まっさらな自分自身に新しい色が加わる経験は、案外に楽しいとすら思えるもので、時に誇らしく、心地よくさえある。その積み重ねが世に氾濫する様々な価値を測るモノサシとなり、この経験に富む人は器がデカい(ように個人的に感じる)。

この日、僕とミハラが国境行のバンを見つけた時、乗客はほとんどおらず、やや広めの助手席は空いていた。下手に後部座席を陣取れば煙草休憩もイチイチ面倒だぞと、そんな僕の咄嗟のナイス判断で助手席に腰を降ろすことにした。たまにはミハラに窓側を譲ってやろうなどと小粋な気を配り、僕が運転手とミハラに挟まれる形で座った。

ようやく乗客が集まり走り出した2時間後、僕は先刻の自身を激しく呪うことになる。

車が動き出して初めて気づいたのだが、この僕のポジション、背もたれがないのだ。そしてよりにもよって凸凹の悪路が続き、捕まる所もないので必死にバランスをとり続けた。当然、寝れない。隣を見やれば、ミハラは実に気持ち良さげにうたた寝ている。「あーおれんとこ背もたれないじゃんかー」、幾度かそう呟くも反応はない。無理矢理に叩き起こして30分交代で席を替わろうと提案することもできたが、僕にも旅人としての誇りがある。親しき仲にもプライドあり、だ。彼もそれを分かってか、僕の愚痴に終始何一つ反応しなかった。

結局、僕の面子を立てる為の彼なりの思いやりなのかもしれない、とそう思うことにした。アフリカは旅人をポジティブにするのだ。


国境に到着した頃には日もとっぷり暮れていた。マラウィ通貨はほとんど残っておらず、ザンビア通貨も手元に無かったが、とりあえず国境を超えることにした。

マラウィ側のイミグレーションとザンビア側のそれとは50m程離れていた。こんな時間に入国してもその後の移動や宿探しが億劫だ、と意見が一致したところで、オフィスの職員に「建物の裏にテントを張らせてもらえないか?」と尋ねたところ、二つ返事で「いいよ〜好きにしな〜」と言われた。エジプトで購入した1000円のメイド・イン・チャイナテントを組み立てていると、警備員のオジサンがやってきた。一瞬「何か言われるかな」と身構えたが、「どこから来たんだ?どこへ行くんだ?マラウイは好きか?」と呆気ない程フレンドリーで思わず笑ってしまった。

テントを張り終え、安煙草をふかす。この不味さもまた味わい深いと言える程に、マラウイにはすっかり慣れ親しんでいた。湖畔のヌカタベイに始まり、緩やかに時間の流れるチズムル島、山間の長閑な都市ゾンバ、そして人々の生活の音が聞こえる首都リロングウェ。たったの4箇所ではあるが、何処へ行こうとも、とかく人が温かかった。それだけに後ろ髪を引かれる思いは誤摩化せない。おそらくミハラも同じようなコトを思っていただろう、物憂げな顔で煙を吐き出していた。いや、もしかするとチズムルの芋生活を振り返っていたのかもしれない。

イミグレーションの間で野宿するのは、人生初だった。マラウイとザンビアに挟まれ、一畳ほどの汚いテントに横になり、明日の宿はおろか予定も定かではない。正に僕らは根無し草で、放浪者で、行雲流水の旅の中にいた。そんな当ての無い流れに身を置きながらも、腹の底には「なんとかなる」という不確かだが確実な安定感があった。

「なんとかなるのだ」

正確にはこれは間違いだろう。「なんとかなる」ではなく、「なんとかする」という行為の結果が「なんとかなる」だからだ。それを分かった上で、「なんとかなるサ」とゆったり構えていられる。アフリカが教えてくれたことだ。

「なんとかなるのだ」

夜はやや冷え込むが、固い大地から背中に伝わる微かな熱が心地よかった。







※ミハラがブログを更新していたので、同じ日のことを綴ってみた。彼のブログはコチラから。

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