2年ぶりにアフリカ大陸の土を踏みしめた。場所はチュニジア。西方にアルジェリア、東南にリビアとの国境を持つ、地中海に面したイスラム国家だ。隣国に比べると遥かに観光整備が進んでいる、といった話は度々耳にしていたが、その立地ゆえに大抵の旅行者はイタリアから飛行機を使うようだった。その意味でも今回がこのアフリカの小国を訪れるおそらく最初で最後の機会になるだろう、と航空券の購入に至った。
カリアリから首都チュニスまではローマを経由しほんの数時間しかかからなかった。随分とアフリカに近い所にいたんだな、と妙に感慨深い。空港の混沌とした様子–––出入国カード記入テーブルにペンが置いてない、など–––がたまらなく懐かしかった。
アライバル・ロビーに出ると、世界一周チャリダーのリョウヘイさんが出迎えてくれた。彼とは2年前にエジプトで出会い、スーダンを共にした。つい先日西アフリカの単独自転車縦断を終えた彼の笑顔は以前に増して晴れやかで、不純物の一切が取り除かれた透明な液体のような、そんな表情だった。当時4年目だったリョウヘイさんは今や自転車世界一周6年目だ。あれから2年が経っているので当たり前の計算だが、彼が実際にペダルを漕いで来た道のりを思うと、自分の歩みが止まっているような気がしてならない。
ともあれ、リョウヘイさんはナミビアから1週間ほど前に既にチュニジア入りしていた。facebookで少しでも会えないかと調整した結果、空港で30分ほど時間を得たのだった。話したいこと、話さなければならないこと、30分は瞬く間に過ぎてしまったが、西・中央アフリカへのバトンをしっかり受け取ることができた。
チュニジアの公用語はアラビア語とフランス語だ。よって観光客相手の商売人以外には気持ちのいいほど英語が通じない。目的地のサハラ砂漠へ行く夜行バスがそもそも存在するのかの聞き込みから始め、道を尋ねまわり、バス停を探した。地図を眺めているだけで通行人の若いカップルが話しかけてきて道を教えてくれた。屋台のじいさんは身振り手振りで駅の方向を教えてくれた。昨今ネガティブな側面ばかりが認知されがちなイスラムであるが、それだけに実際にその地へ足を運ぶことの意義は大きい。久方ぶりのイスラムの温かさが胸に沁みた。
初日はチュニス市内を歩いてまわった。大小様々な路地が好き勝手に入り組み、旧市街を一層奥深く感じさせる。壁は白、格子などの装飾はスカイブルーと随分爽やかだ。イタリアの美しい歴史の香る街並もキレイだが、野良猫が残飯を漁る薄暗い路地裏の鮮やかなブルーというのも悪くない。
翌明朝、半日探しまわった夜行バスはサハラ砂漠の入り口・ドゥーズという町に辿り着いた。風が強く、夏服だと随分肌寒い。ちょうど2年前にさほど緯度の変わらないスーダンにいた時は40℃近い中毎朝汗だくで目覚めていたのに、地球というのはよくわからない。
とりあえず一番南へ向かうバスに乗っただけだったのでこの町については何も知らなかったが、辺境にしてはそこそこの規模で、どうやら地球の歩き方にも載っているようだった。懐かしい鈍い砂漠の青空の下、店先で水タバコをふかしながらミントティーをすするムスリムのオッサンたち。慣れ親しんだ、優しい光景だ。
結局1時間もしないうちにツアー会社を見つけ、その日の夕方のラクダツアーと翌日の国立公園爆走ツアーに申し込むことができた。
夕時のラクダツアーはさぞ綺麗だろうと多いに楽しみにしていたが、本日サハラは猛風で、カメラなんか取り出せたものじゃない。目も開けられないほどなのだ。そんな状況にも関わらず、ラクダに乗りながら、キャラバンを組みながら、薄目で眺めるサハラはただただ荘厳で、あまりに静かで、なんとなく涙がにじんだ。
風のおかげで夜は最高だった。見上げればどれが星座かも分からぬ程に星々が自己主張をしていて、1つの大きなけむりのようだった。全天が星に覆われ、20秒に1度は視界の端へ星が走った。圧倒的な星空を見る度に「これだけ流れ星みられれば願いごとかけ放題じゃん!」なんて俗なことを思うのだが、その度に「大した願いなんて自分には無いな」と気付かされる。不思議なものだ。
翌朝、自然と目が覚め、砂丘の間を縫う様に歩いた。幾分か白ずんだ空が今日の訪れを告げるのを、移ろうことをやめない砂丘の中、ぼんやりと体育座りで眺めた。
砂漠は美しい。そこには純粋な美がある。溶けてしまいそうなくらい繊細な曲線や弧を描き続け、それは一見女性的だ。だが実際に足を踏み入れると、如何にそこが過酷で熾烈で純度の高い酒のように荒々しく男性的であるのか、感じずにはいられなくなる。
そんな下らないことを考えていたら、朝日は今日もまた昇った。
たった数日の短すぎるチュニジア訪問ではあったが、案の定というと些か品を欠くが、またしてもイスラムの、アラブの、優しさが身に染みる日々だった。旅人の、異邦者の距離感がそう感じさせるだけなのかもしれないが、そこには善意の枠を超えた「良きルーティン」のような何かがあると、毎回勘ぐってしまいたくなる。
そんな折々、考えさせられることも多かったが、今回なんとなく、ふと言葉になった思いがある。題して「take and giveは人生の指針足り得る論」だ。
give and takeという言葉がある。辞書を引くと「互いに与え合う、譲り合う」なんていう事柄が出てくる。僕が感じた彼らの優しさをこれに無理矢理当てはめるわけではないが、彼らの行為(好意)は「give」から始まっているように思う。その背後に在るのは宗教だったり道徳だったりだろうが、それはいい。問題なのは、例えばそれを自分も行うことに憧れた時、「自分からgiveする」というのが–––少なくとも僕にとっては–––なかなかに難題だということだ。
ただ、仮に「take」から始まっていたとしたら?歳の割に斜に構えたところが抜けない僕ですら、もらったモノを返さないほど無粋な人間ではない。giveの大義名分が自分の中できる訳だ。そして付け加えるなら、この「take–give」間の相手は常に同じでなくても良いはずだ。
チュニジアで優しくされた。2年前のアフリカ縦断中など、さらに多くの数えきれないほどの親切を受けて、時にそのお陰で命すら救われた。今後将来、実際に彼らの一人一人に会ってgiveしていくことは、間違いなく不可能だろう。彼らもそれを望んでいたわけではないはずだ。だが、この一身に「take」してきた好意を、上から貰って下に渡して、右から得て左へ与えて、そんな風に繋げるのは不自然ではないと思う。そのくらいの「幅」はあっていいはずだ。
「国際協力」なんて仰々しい四文字熟語を見ると、どうにも気が引けてしまう。自分は確かにそれがやりたいと思っているはずなのだが、口から出すとどうにも嘘臭く聞こえてしまうし、動機がないところにそんなモノが生じても物語はオモシロくない。そんな、ちょっとした矛盾がずっとあった。けれど、今まで散々takeばかりしてきたなあ、と思った時こそ、giveが理由足り得るのではないか。これが自分の論理の型にしっかりハマった。動機はあったのだ。
「give and take」 が無理なら「take and give」。与える相手と受け取る相手が違っても良いことから生まれる、円のような、あるいは時間軸を貫いた螺旋のような循環。
要は理由の後付けだが、そんな人生の指針も、悪くない。
0 件のコメント:
コメントを投稿