2011年11月24日木曜日

旅について。

「旅について。」

このテーマについては今まで書くかどうか迷っていたが、今回思い切って自分の考えを羅列してみることにした。最初に断っておきたいのは、これはあくまで「今現在の僕」が考える旅についてのメリット・デメリットだということだ。今まで一人で旅と言えるような旅をしたのはインドだけだし、来年の放浪流学を経れば考えも変わるかもしれない。でもここに記すことが今現在の僕をアフリカへと駆立てている、個人的な「旅」の魅力である。大したバックグラウンドもまだ持たない僕の言葉は軽く感じるだろうが、何らかのキッカケになれば幸いだ。


まず始めに。一口に旅といっても色んな旅がある。ツアー旅行だって旅だし、豪華客船に乗るのも旅。言ってしまえば、当事者本人がそれが旅であると思うならそれは旅であると言えるだろう。ただ、ここで僕が意味する旅は、所謂「貧乏放浪」なるものに限定させて頂きたい。もう少し具体的に言うなら、バックパックにできるだけ少ない荷物を詰め、安宿に泊まり、電車はクソみたいな顔して3等車両に乗り、地元の人と語らい同じ鍋の飯を食う、そんな非日常的なちょっとした冒険要素を含む「旅」。これが僕のイメージする、そして憧れる旅だ。

海外へ行こうと思ったとき、個人的に、特に大学生が選択できるオプションは大別すると「留学」「旅」「スタディツアー」の3つに分けられると思う。それぞれの特徴を述べると、留学は興味のある文化や言語で1つの地域・国を選択し、比較的長期間その土地の一員となるべく様々な経験を求めて滞在するもので、スタディツアーは特定の興味のある分野について、NGOなどの国際機関が提供する短期ツアーに参加し、比較的大人数で集中的に効率よく学べる旅行。そんな風にイメージできるだろう。対して旅はその期間次第で留学のように一カ所にとどまることもできるし、逆に多くの国々を転々とすることもできる。また自分が動いた分だけフィードバックがあるので、何かを学ぶ気持ちがあればスタディツアーのような旅も可能だ。定義が広く様々なスタイルが存在する分、旅においての自由度は想像力次第である。つまりは何が言いたいかというと、3者はまるで異なるもので、同じ海外へ行くという事実もそのツールの選択次第で得られる経験もまるで違う、ということである。けれども、それぞれの特性を踏まえた上で留学やスタディツアーを選択する人がいる一方、もっと漠然に「海外に行ってみたい」と思う人は多くいるのも事実だろう。そんな人に僕は旅というツールを利用することを強く勧めたい。

以下に僕の思う旅のメリットを(留学やスタディツアーに共通するものもあるが)自分のエピソードを交えながら順に列記する。※あくまで個人的な意見であるというのをお忘れなく。

・安い!
旅はとにかく安い。もちろんどの国に行くかにもよると思うが、自分の工夫と努力次第で節約が可能なのは魅力的の1つだろう。どの国にも安宿や大衆食堂はある。贅沢を望まなければそれだけでもだいぶ安上がりになるし、プラン次第では留学やスタディツアーより格段に安く旅できる。実際インド放浪時、かなりの距離の移動と土産物などの買い物をしたにも関わらず、一週間にかかったのは日本円で1万円をきる程度だった。

・自由度が高い!
旅における自由度の高さは、気ままに旅したい人にとって大きなメリットだ。朝起きて何もしたくなかったらごろごろしていればいいし、何かしたければ動き出せばいい。自分が何をしても全てフィードバックが自分に返ってくる感覚は旅特有のものだろう。気分や現地で入手した情報次第で行き先を変更したり滞在期間を変更したりできるといった自由も旅ならではのものではないだろうか。インド放浪した時、始めは僕と親友の2人で行動していたのだが、その親友は別の旅人からの話に影響を受け、急遽行き先を変更してインド北部の停戦ラインぎりぎりまで飛行機で飛んでいった。旅はフィーリングなのだ。

・様々な出会いがある!
旅の魅力の1つでもある様々な人との出会いは、留学やスタディツアーにおいても多くある。しかし旅における出会いとは少し特殊であるように感じる。安宿で偶然一緒になった他の旅人、宿や食堂の主人、街中で仲良くなった地元の人、挙げていけばキリがないほど旅における出会いの幅というのは大きい。旅を終えた人から「視野が広がった」という言葉を聞く。全く自分と価値観の異なる人との対話というのがその一因であると言うのはあながち間違いではないだろう。実際僕自身も多くの人と出会った。写真家と遊び人の日本人、一緒にガンジス川で泳いだお兄さん、幼稚園の先生を辞めて旅していた日本人女性、結婚式前夜だというのにウィスキーをご馳走してくれた食堂のおっさん、スキンシップの激しい露天の兄ちゃん、美味いチャイをいれてくれたじいさん、カルカッタの安宿で一緒だった色んな国の旅人達、英語も話せないのに死を待つ人の家にボランティアに来ていた韓国人のお姉さん、世界一周中の大学生、久々に聞く綺麗なアメリカ英語を話すお姉さん。数え上げれば本当にキリがないほどだ。その中には未だに連絡をとる人もいるし、当時17歳の僕の話をみんな真面目に聞いてくれた。何より、安宿の屋上で安いビールとタバコ片手にアツい思いを夜通し語り合うのは、実に楽しい。

・新しい自分の発見!
「自分探し」なんて使い古されたクサい言葉もあるように、旅の道程で新しい自分を発見することは稀ではない。旅の途中、自身に染込んだ日本の文化や価値観ばかりを引きずっているとどうにも上手くいかない事がでてくる。理解し難い自分にとって未知の価値観に出会う。そんな時に、客観的に自分を見、ベストを思われる選択を行える自分を演じる。最初は役者のような薄っぺらな仮面のようなものかもしれない。だが次第にそれが自然に、あたかももう1人の自分がいるかのように素に馴染むことがある。自分の中に引き出しがひとつ増えて、自分が変わったような感覚。そんな経験が僕には多々あった。個人的に、たとえ何処に行こうと、旅において最終的に向き合うのは自分自身であるように感じる。

・第6感がビンビン!
新しい未知の土地を歩くとき、まるで自分の目が自分のものじゃなかのように、いろいろなモノに自然と目が向く。ちょうどカメラを首から下げて近所を散歩しているときのようなフィーリング。そして今まで見たことも聞いたことも食べたこともないモノに驚き、異郷のニオイが自分に染込んでくるのを感じる。ふだんは見過ごしちゃうような何気ないモノだって、これでもかっ!ってほど新鮮に輝いて見えてくる。旅している時はそんな風に第6感のようなものが働き、アンテナが伸びているように感じることがある。前に記事に書いたような感受性と言い換えてもよいだろう。

・得難い経験!
当然、海外へ出ることの目的の1つに「様々な経験をすること」というのが挙げられるだろう。旅においても例外なくそんな得難い経験を積むことができる。予め「○○をしてこよう」とプランしていた具体的な目標達成だけでなく、予想外の展開からの予想外の経験が得られるのは旅の醍醐味の1つだろう。以前に記事でカルカッタのボランティアフェスティバルのことを書いたが、アレは僕にとって完全に予想外の出来事だった。そんな経験の方が案外強く脳に焼き付いたりするものだから不思議なものである。

・当事者になる!
学問としての地理でどれだけ地名を頭に叩き込んでも、なんとなく別世界の話のような気がして記憶に残らないことが、少なくとも僕にとっては多い。だが実際にその地へおもむき、そこで飯を食い用を足し、物を思い人と交わり、そんな現実を見てくると多少ではあるがその土地に関して当事者になれる気がする。(このことについてはまた後日記事で書きたいと思う。)インドで最後にムンバイという臨海都市に数日間立ち寄った。タージマハルホテルという、ビトンやシャネルが入ってるような超VIPホテルの近くにある、入り口の近くで乞食のおじいさんが体重を測ってお金をもらってるような安宿のドミトリーに僕は居を構えていた。最終日にそのタージマハルホテルのレストランで話のネタにと思いクソ高いケーキと紅茶を食べてきた(場違いすぎてかなり浮いたが)。そして帰国して数ヶ月後、驚くようなニュースが僕の目に飛び込んだ。なんとそのVIPホテルがテロにあったというのだ!僕のいた安宿もターゲットになったらしく、かなりの死傷者が出ていた。ショックを受けた僕はそのニュースのことを友人に話したが、当然みんなそのことを知らなかった。おそらく僕もムンバイでタージマハルホテルの近くに行かなかったら、ニュースに目をとめることはなかったかもしれない。ただ、実際にそこで、その場所を、そこのリアルを見てきたから、僕の中に多少ではあれど当事者意識が芽生え、あれほどショックを受けたんだろうと思う。当事者になること。それが良い悪いというのは別にして、視野を広げるのに深く繋がるという意味で、価値のあることのように感じる。

・何かが見つかるかも!
これはあくまで可能性の話だが、様々な経験を通して視野が広がることで、何らかのキッカケを得ることもある。僕はそんなキッカケに出会えた1人で、インド放浪は、自分の将来について真剣に考え、一つの結論を導く契機となった。個人的な主観だが、本当にやりたい事なんてのは受け身では見つからないのではないか、と思う。自分の軸となるような何かがまだ見つかっていなければ、それは積極的に求めなければ見つからないと思うし、狭い世界と価値観に捕われているだけでは漠然としか生きていけないように感じる。もし漫然とした不安を抱えているのならば、あくまでツールの1つとしての旅を勧めたい。そこから何を見いだし紡いでいくかは自分次第ではあるが、その経験がマイナスになることはないと保証する。(僕の保証に説得力などまるでないが。笑)

・価値観の壁を壊す!
狭いコミュニティーで特定の価値観にのみ縛られていては、生の価値は見いだせないのではないか、と超個人的ながら思っている。どうせ一度きりの人生であれば、折角ならいろんなモノに触れるべきではないか。その後にその善し悪しを判断すればいい。様々な価値基準にふれ、自分の中の常識の壁を壊すことは、生を謳歌する上で不必要なことではないだろう。旅における経験にはその力があるように感じる。

・冒険!
冒険のような旅は心底楽しい。経歴や地位や、そんな一切のシガラミが全部なくなった裸の自分がどこまでやれるのか、っていう挑戦。もしかしたらそれはただの冒険「ごっこ」でしかないのかもしれない。がしかし、それでも十分過ぎるほどの刺激が間違いなく得られるのが旅だ。

・より庶民的な暮らしが見える!
海外へ行くことの目的は人それぞれだろうが、その国のことを知りたい、という思いは共通してあるように思う。そのときに、バランスの良さはもちろん大事だが、いわゆる庶民レベルの目線から国や地域、社会や文化を体感するのが一番効率的であるように個人的に感じる。僕の言う貧乏放浪的な旅では、そのレベルの人と関わる機会が往々にして一番多く、あるがままのリアルを見てくるという意味で適した手段の1つであるように感じる。ただ、たかだか数週間でその全てを知った気になるのはいささか傲慢だろう。17年近く住んできた日本のことですら全て知っているわけではないのに況や、ということだ。あくまで自分の見てきた世界が1つの側面である、という事実を心に留める謙虚さは必要だろう。

・非日常を味わえる!
当たり前と言ってしまえばそれまでだが、旅中は日常から逸脱することになる。そのワクワクを求めて、非日常に飛び込むために旅に出る、というのも旅の1つの側面だろう。ここで強調したいのはただただ純粋に非日常が楽しい、ということではなく、非日常に身を置くからこそ生まれてくるものもある、ということだ。普段と違う生活を送れば普段と違うことを考える。マジメなことであったり、フザケタことであったり、そんな非日常的な思考にふけるのは案外楽しいものだ。



とここまで超主観で旅の魅力を綴ってきたわけだが、確かに旅にはデメリットももちろんある。以下にそのデメリットとそのフォロー(笑)を書いていこうと思う。


・安全性
留学やスタディツアーに比べ、確かに旅の道中の安全性は低いと言わざるを得ないだろう。某旅行ガイドブックの後ろのページを見れば、旅行者が体験した危険な話が星の数ほど寄せられている。不可抗力的に危険に遭遇してしまうことは確かにある。だがそれ以上に回避できる危険があり、その方法があるのも事実だ。危ない場所に行かないこと、危ない人に関わらないこと。病気に対してであれば予防をし体調管理をしっかり行うこと。当たり前といえば当たり前のことだろうが、しかし旅行者はそれを知らない・気づかないことが多い。馴染みない未知の土地に飛び込んで、すぐにそれに気づくのは確かに無理がある。だからこそ他の旅人との情報交換や旅スキルのようなものが意味をなすわけなのではあるが。しかしながら、そういったあからさまな危険に対しては、なんとなくではあるが、旅する間に危険レーダー的なのが身に付くので、案外巻き込まれなかったりする。むしろ危ないのはテロや事故といった、自分の注意ではどうにもならない事に巻き込まれることだろう。こればっかりはどうしようもないのかもしれない。だが、日本にいてもその可能性はあるわけで、海外だから危ないと一概に決めつけるのは間違っているように思う。確立に全てを委ねる気はないが、日本にいようが何処にいようが起こってしまうことはあるのだから、それを判断する目を正しく持つことが大事なのではないか。また、よく「女性の一人旅は危険なのでは?」と聞かれるが、そんなことはないと僕は思う。女性だから巻き込まれるトラブルは確かにあるが、逆もまた然りな訳で、実際に若い女性で一人旅してる人なんて星の数ほどいる。僕もそんな人たちに道中お会いしたが、中には母国語しかしゃべれないながらも楽しそうに旅している方もいた。

・旅スキルがわからない
前述の話とかぶるが、旅するにあたりハウツーを知っていることは大きなアドバンテージだ。逆にそれを知らないと困ることも多くある。宿の探し方や交渉の仕方、コミュニケーションの取り方やビザの取り方、などなど色々挙げられるだろう。だが、得てしてこの旅スキルというのは自分自身が旅する中でそれとなく身につけていくものであって、旅に出る前に誰かに教えてもらうようなものではない(というかそんな機会もない)ように感じる。実際そういった軽いトラブルが、意外にも旅を終えての良いネタになったりするので、一概にスキルを知らないことが悪とは言えないと個人的には思うのだが、それに対して不安を抱くのも当然だ。もしどうしても出国前に旅スキルを知りたい、という方がいれば、是非知り合いで旅されてる方に聞いてみて欲しい。僕自身も、アフリカ流学を終えてから本格的に企画を考えている「学び人プロジェクト(仮)」で、そういったスキル的なものの継承なんかをしていけたらと思っているので、興味のある方は是非一報を頂きたい。

・言葉の問題
日本語が話されているのは当然日本だけなわけで、基本的に海外で日本語は通じない。訪問する国の言語が話せればそれがベストなわけだが、そう上手くもいかないだろう。日常会話レベルの英語を話せることが一番無難、といったところだろうか。ただ、ここで強調したいのは、必ずしも他言語に精通している必要はない、ということだ。実際にインドで僕は英語日本語どちらも使っていた。おそらく相手にはほとんど通じていなかっただろうが、ジェスチャーとノリで本当になんとかなってしまうのだ。必要なら辞書片手に指差しながら、イラスト描きながら話せばいい。言葉なんてのは話せたらいいな程度のテンションでしかない。ただもし、他国の旅行者や現地の人とより深く関わりたいのであれば、それなりの準備はしておくべきだろう。(僕自身、アメリカに1年留学した理由の1つはそこにあった。)

・滞在期間の短さ
旅の性質上、往々にして一国にとどまる期間は長期留学のそれよりは短くなる。(もちろん時間があればビザ次第で長く滞在できるわけだが。)長くいることが良いこと、というわけではないが、それでもやはり滞在期間が長いほど魅力的な出会いや経験に遭遇するチャンスは上がるし、その国についてより多くの側面を見ることのできるように感じる。これはしょうがないことだろう。けれど、もしすごく気に入った場所があれば、帰国後そこにもう1度行くことだってできるわけで、旅のメリットの「色んな地域を訪ねることができる」ことをそういった風に活かしていけばいいのでは、と思う。

・堕落してしまう
メリットのところで旅では「自分から行動した分フィードバックがある」と述べた。確かにその通りだと思うのだが、それは同時に「何もしない」を選択できることも意味する。事実、旅先の日本人宿(日本人旅行者が多く集うような安宿)には大抵1人や2人くらい、もう何年もそこにいるような方が、特に何をするわけでもなく、日本に帰るわけでもなく、タイタニック号のごとく宿のベッドに沈没していることがある。個人的にその気持ちも少しは分かる気がする。住みやすい国は何も日本だけではない。想像以上に自分にシックリきて、思わず歩みを止めてしまう、誰も自分を責めないそんな異国の地はいくつも存在する。その善し悪しをここで議論する気はないが、僕は旅はあくまで旅であると思う。始まりがあり終わりがあり、そしてその先には経験を活かすべき自身の人生がある。その前提の上にたって旅に出た以上、初志は貫徹すべきではないだろうか。極端な例ではあるが、実際に何もしないでごろごろしてたい瞬間はある程度の期間を経れば訪れることもあるだろう。そんなときに、時間という制約が比較的ある旅だからこそ、それが本当に自分にとって必要なうだうだなのかを考えてみることも時には大切だろう。



以上、デメリットなんて仰々しく書いてきたわけだが、なんとかなるものだ実際。「思い通りにはいかない、でもなんとかなる」、それが旅で、それが旅の楽しさなんだと思う。

もう1つ注意的なものを自分への戒めの意味も込めて書くことにする。それは「旅はファッションではない」ということだ。結果的に旅したことがファッションになり得ることはあっても、それが目的になってしまうのは違うんじゃないか、と個人的に思う。例えばよく耳にする「世界一周」について考えてみたい。それが文字通り世界を一周することであれば、全大陸に足跡つけるだけの作業なわけで、おそらく一週間もあれば飛行機使いまくって達成できるだろう。だがそれは本当の世界一周ではないだろう。なら世界一周とは何なのか。その本当の目的は訪れた地でセックスをすることなのではないか。ここでいうセックスとは性的な意味とは限らないもので、その土地の文化や宗教、歴史や人、そういったその地をつくりあげている要素と強く深く関わろうとすることだ。今も昔も、おそらく世界一周を掲げてきた旅人たちは、あえて言わずともそれを求めて旅に出たのではないか、と僕は思う。そしてそれは一般の旅にも当てはまることではないだろうか。どんな旅をしてもそれは個人の自由だ。だが、僕はファッションではない、セックスをする旅を強く推したい。



長くなったが最後に1つ。おそらくここまでこんな訳のわからん駄文を読んでくださった読者は、少なからず旅に興味のある人だろう。もし読者が旅に出たいがまだ迷っている、もしくはいつか将来行こうと考えているなら、僕は「今行くべき!」と声を大にして主張したい。旅というのは元来時間的制約の大きいものだ。今と未来でのある場所が同じとは限らない。特に政情が不安定になりやすい地域や発展が急速に進んでいる地域なんかでは、1年が大きな違いを生み得るだろう。行ってみたい国が近い将来紛争などで立ち入れなくなる可能性だって0ではない。多少無理してでもできるだけ早く行ってみることは決して無駄じゃないと僕は思う。また、行ってみたい国ややってみたい事が自分にとって何年後かに変わらないとも限らないし、今行って自分が感じ学べることと数年後のそれらとはおそらく違ってくるだろう。そういう意味で、もし旅したいのであれば、「今しかないんだ!」ということを考えてみて欲しい。一度覚悟を決めてしまえば後は慣性でなんとかなるものなのだから。




この記事が少しでも旅したい読者のキッカケや背中押しのようなものになればと願いながら、この長ったらしい駄文にピリオドを打とうと思う。ありがとうございました。

2 件のコメント:

  1. とりあえずあきらみたに1年間休学は出来んけど春休みは絶対南米行ってくるは、ペルーからボリビアのアルゼンチンしてくるはマジで、スペイン語勉強してから行くは、まじで。

    返信削除
  2. まじか!南米うらやましい!バイクで駆け抜けてきてくれ!次は名古屋でお互いの旅談義に華咲かせようぜ!

    返信削除

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...