2012年1月1日日曜日

9ヶ月後の「今」を見つめて。

年の瀬に、たったの2日間ではあるが、被災地を車で見て回った。新年早々重めの記事ではあるが、写真を含めて考えたことなんかを綴ろうと思う。






2011年3月11日、僕はあの日秋田市にいた。大学前期試験を無事終え、物件を探すため生協で話を聞いていたときだった。体感したことのないタイプの強い揺れ。すぐ止むかと思いきや一向にその気配はなく、展示品の電子レンジが床に落ちたとき純粋に「恐怖」を感じた。

その後外に避難した。吹雪いていて寒かったのを覚えている。

宿泊していたホテルのある、駅に隣接した「アルヴェ」という市民交流センターは避難所となっており、大勢の人で既にごった返しになっていた。翌日が国公立大学後期試験だったため、受験生らしき学生が何人か寒い中必死で参考書と向き合っていたのが印象的だった。

混乱のせいで携帯は使えず、連絡をとることも情報を得ることもできなかった。ホテルのエレベーターは停電のため停止しており、予約した12階室へは自己責任で階段を使って登ったが、8階あたりから壁の亀裂もひどくなり、揺れの振幅も大きく、諦めてアルヴェ1階の床の上にダンボールをしき、支給された毛布に冷えた体を包んで眠った。

新潟へ帰るのには3日間かかった。交通機関が完全にシャットオフされていた。駅には「ここは東京か?」と思うほど、常時人が群がっていた。

駅などの大型TVスクリーンで地震の詳細を見たときは本当に驚いた。「津波」ってのはもっと映画みたいに高波がドバーっとくるもんだと思ってただけに、海底の土を含み黒ずんだ波が淡々と街を、ビルを飲み込みなぎ倒していく様子は、信じがたいものがあった。

新潟に戻って青年海外協力隊の方々と街頭募金をした。友人とポスター作りもした。

けれど、信じられないニュースを見れば見るほど、不謹慎だが、それが何か大掛かりな映画とか、ほかの世界の物語のように思えてならなかった。

「いちど被災地へ行ってみよう」、秋田へ引っ越してきてからもそう思い続けてきた。

実際チャンスは何度もあった。GWや夏休み前の大学のボランティア募集、夏休み、などなど。

自己責任、と言ってしまえばそれまでだが、夏明けころには現地で短期間のボランティアに参加するのは実際難しくなっていた。

初期の泥出しのような労働力を大量に必要とするフェーズから次の段階に移行しており、専門も何もない一大学生にはなかなか直接現地へ赴く機会はなかった。所詮言い訳ではあるが。

それでも被災地を自分の目で、直接生で見たいという思いはずっとあった。2012年には1年いなくなるわけだから、なおさら今年のうちに、と思っていた。







今回、年末にその機会に恵まれた。父親が被災地を車で回るから一緒に来ないか、と誘われた。このまたとないチャンスにもちろん二つ返事でYESと言った。

ためらいはあった。初めは正直、半ば被災地めぐりの観光のようなこの訪問に引け目を感じる部分はもちろんあった。

けれど、結果から言ってしまえば、行ってよかったと今は思っている。

TVや新聞では伝わらないその場所の「空気」を五感で感じながら、残された傷跡を写真におさめてきた。たくさん考え、それと同じくらいの数シャッターを切った。

ニュースなんかでは「被災地に軽々しく行くな」なんて報道されてるらしいけど、僕はもっと多くの人が訪れるべきだと思う。あのリアルを見ずに口にする同情にどれほどの価値があることか。






以下、写真をメインに文章を添えていきたい。所詮部外者の僕の言葉は軽いだろうけど、たくさんの人に見て、考えてほしい。「何ができるか」とかじゃなくて、同じ今を生きる日本人として、知るべき現実だと思う。



石巻の高台から見下ろす街は跡形もなく流されていた。

 
9ヶ月たったといえども、未だにこういう家がそこら中に残っている。
 
門脇小学校。津波で全壊した上に、火災まで起こった。
泥と瓦礫にまみれていた教室に、ひとつ落ちていたうち履き。

静か、というか、こんなに表情をなくした学校を初めてみた。

4日間断水状態だったらしい。もう使われることのない水道。

校舎内はそこら中、泥とススだらけだった。

正面玄関から見える景色は妙に平らだった。哀しい風景。

散在した物、物、物。

誰かの思い出があっただろう下駄箱。

どこの町でも、墓石は流され倒されていた。

車で街中を走っていても、普通にこういう景観に9ヶ月たった今でも出くわす。これを見て何を思うのだろうか。

あるべき場所にない船。

どこの町にも車の墓場があった。なかには運転席に生々しい忘れ物が残された車もあった。

津波が去った後残ったのは、大きな鉄筋コンクリートのビルの柱と、家屋の土台のコンクリート部分だけ。「ここがトイレでここがお風呂で・・・」そんな風な生々しい考えさえ浮かぶ現実。


どの町にも共通して、鉄屑や残骸の山にスズメが群がっていた。巣をつくって新しい命を育んでいるのだろうか。

大川小学校。裏の山に逃げた数十名の生徒以外は全員波にさらわれた。

石巻の崩壊しきった小学校、めちゃくちゃな墓石、波に一階をもぎ取られてかろうじて建ってる新しげな家、廃車の山、鉄屑に集まり巣を作る雀の群れ、今は海になった町。
 
 

1日目の夜は女川で車中泊。興廃した街と満点の星空のコントラスト。街をさらっていったのも自然、満天の夜空を魅せるのも自然。なんなんだろうな。


瓦礫に浮かぶ朝陽はやさしかった。なんだか不思議な光景だった。

女川の朝。手前の大きい建物が町立病院で、その1階まで津波に飲まれた。当然、そんなに高くまで波がくると思わず駐車場に避難した町民は、波にさらわれた。

「山と海に囲まれたきれいな町なのに・・・」そう思ってしまう。復興というより再興。ただでさえ地元離れする若者は、また同じように惨事が起こらないとも限らないこの地に、果たして戻ってくるのだろうか?

希望をたくして。


今回の訪問で「学生ボランティアのあり方」 についても考えさせられた。僕自身、多少ではあるが大学の震災ボランティア団体に関わらせてもらっているのだが、震災直後の瓦礫撤去などと違って、今のフェーズにおいては求められるものが明確でないため、何を提供できるか、ってのはなかなか難しい。

石巻の父の知人とも話していて実感したのは、よくニュースでも目にすることであるが、結局今のフェーズでもっとも必要なのは「職」なのだ。それは間違いないと思う。女川でも「店を再開させたい」という思いで一生懸命動いている30代の方たちの話を聞いた。

じゃあ、学生に何ができるのか?

職提供、もしくはそれに準ずる何かか、職の周辺整備。この一番求められている事柄に学生が簡単に関わっていけるとは思わない。

今、学生団体では応援系の企画なんかが多い気がする。孤独なお年寄りの話し相手になったり、子供たちのために何か企画したり。そういうのも必要だろうけど、中には曖昧なボランティアの関わり方を否定する現地の方もいるわけで、なかなか難しいなと思ってしまう。

何かしなければいけない気はするけど、何ができるんだろうか。何もしないのだけは違う気がする。

答えが無いことではあるけど、僕が思うに、学生ができるのは①募金の継続②現実を知る③今自分がすべき事をする の3つくらいだと思う。

被災地へ被災地へと外側へベクトルを向けるだけじゃなく、内側にも視線を向けていくことだって大事だろう。

何より結局③が重要なのではないか。地震はまた必ず来る。それが僕らの生きている間かどうかはわからないけど、必ず。そのときに、今回のように力が無く、直接的に関われないのでは話にならない。

次回に備える、というと聞こえが悪いが、今自分がすべきと信じることをやることは間違ってはないだろう。被災地の傷跡を見ていると、何かしたいだけの気持ちに流された安易なボランティアはすべきでないと思ってしまう。



ビルが倒れるっていう発想がなかったまず。

家族と家をなくされた女川出身の方。こうして女川のリアルを映像におさめているらしい。

未だに倒れたままの電柱。地盤が沈下し、そこらじゅうに海水が浸水していた。

ここにも津波が直撃したであろう家があった。

これだけ見たら、何も知らない人が見れば、何らかのアートなんじゃないか、と錯覚するほど現実離れした世界だった。

そこにあるべきではないもの。感覚が麻痺する。

横になったビル。

ぽつんと落ちていた信号。赤がない。

おくの建物が駅で、ここはプラットホーム。線路は泥に埋まっていた。

建物からあふれ出した瓦礫や残骸。未だにこんな場所がいくつもある。年末だというのに、町には多くの撤去作業が行われていた。

ありえあい光景。車が流されてつっこんだのだろうか。
ちなみにこの屋台で食べた牡蠣にあたってノロ感染しました☆


今回の訪問は、石巻→女川→南三陸→気仙沼→陸前高田と沿岸を北上していったのだが、海岸付近はどこも共通して津波の被害を受けていた。ニュースなどに名前の出てこない町や村もたくさんあった。道路わきに震災後に立てられたであろう、「これより下、津波浸水区域」という標識が瞼に焼き付いている。


病院。3階まで完全に津波をかぶっていた。

添えられた花。遺族の思い。

病院 といわれなければもはや何の建物だったかもわからない。それほどひどい。

津波は怖い。街や建物、すべてを洗い流し、無表情にしてしまう。訪問した街はどこも、個性が消え、悪い意味で均質化されていまっていた。

パチンコ。音がない。

ありえない場所にのっかってる車。こんなのがまだ
放置されてる。南三陸町。

はっきりと前のほうの塩水がかかったであろう木々だけ枯れている。自然も傷ついた。

タイヤの山。これどうするんだろう。

山の中に船があった。

線路は途切れていた。ここを電車が走る日はいつになるんだろうか。
カーナビには橋があるのに、目の前には橋が無かった。なんなんだ。

橋が落ちていた。簡易の橋が多くかかっていた。


廃駅。海がすごく近くて気持ちのいい駅だっただろうに。


落ちた橋の一部。

今回の訪問では、人と関わることが少なかったので、被災地の希望的ポジティブな側面を見てくることはあまりできなかった。9ヶ月たった今でも街中に普通に残されている傷跡が、ただただショッキングだった。

瓦礫の山。色や種類で分別されてたことに変に関心してしまった。

陸前高田市は訪問した中でもトップレベルで被害がひどかった。海に面した市がまるごと一個なくなっていた。

瓦礫の山の上から瓦礫の山を見下ろした。ほんと、そこら中こんな感じ。

市の体育館だろうか。ステージ側(手前)の壁が抜け落ちていた。

消防車と骨折してるバスケのリング。自然災害でこんなにエグいんだから、人間どうしで争ってる場合じゃないだろ、って思っちゃう。

この山は木材だった。



繰り返しになるが、たった2日間ではあったが、年内に被災地を訪ねることができて本当に良かったと思う。自分の中でもまだ整理できてない思いが多いのだが、熱が冷める前に、ノロウィルスが小康状態のうちにブログに書いてみた。

なんとなくだけど、今自分が何をすべきか見えた気がする。

これも繰り返しになっちゃうけど、地震や津波なんかの天災はまた必ず起こる。望もうと望むまいと。それが僕らの生きている間かどうかは別として。それは事実。

だからこそ、次に何か起こるときまでに力を身につけ、軽いフットワークで現場に関わっていけるように、今自分のやるべきことをしっかり見据えていくのは重要なのではないか?

最後にひとつ、お気に入りの言葉を。


"Where there's a will,there's a way."

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