2013年5月25日土曜日

Cycling Africa 〜DAY 7〜





それは、更なる地獄の始まりを微塵も感じさせない、煙草と珈琲と静かなジャズが似合う穏やか過ぎる朝だった。

昨夜野宿した荒野の真ん中から暫くは、道も平坦で向かい風もさほど感じることなく、比較的気持ちよくペダルを漕げた。そこまでは良かった。2時間ほど経った頃からだろうか、南に近づいてきたからなのか、いつもより幾分か早く暑くなり始め、早々に風が正面から吹き始めた。

3時間も経つと、昼前だというのに肌を突き刺す日差しを感じる。想定外の事態に水だけが徒に消費されてゆく。我慢と節約を心掛けるが、既に昨晩紅茶を湧かすのに水を使ったことが悔やまれるくらい水の残量が心細い。日陰がない不毛の大地では休憩するような木陰もなかなか見つけられず、仕方なしにとっくに乾涸びた小川に掛かる橋の下で息を整えた。


本日、一番の問題は「次の目的地までの距離が正確に分からない事」だった。ウィントフックで手に入れた地図にはKeetmanshoopからおよそ110km、即ち昨晩の地点から70kmの場所にロッジがある、と記されていたが、その数字も指で測った極めてアバウトなものだ。ゴールが見えないというのは精神的にかなりの消耗を強いる。気づけば視界の先のそのまた向こうに、ロッジの影を探している自分がいた。

限界寸前。この一日を一言で要約するならば、これに尽きる。体力も精神も限界ギリギリを彷徨い続けていた。エチオピア・ケニア間のバスやキリマンジャロ最終日など、序章にもならない。「何でおれはチャリ漕いでるんだ?」と自問自答を繰り返すも、答えなどあるはずもない。立ち止まったらのたれ死ぬだけで、とにかく前に進むしか無かった。ふと視線を前に向けると、車に轢かれたのだろう、イタチのような生き物の死骸が無惨に乾涸びていた。


無骨な岩ばかりが広がり、ちょっとしたアップダウンを繰り返す道が永遠に思えるほど繰り返される、そんな開けた大地が眼前に広がった。真夏のナミビアの鮮烈な日差しは、世界から色彩を奪い、眩い程の白に染め上げていた。意味の無い長い数字の羅列を見つめるように、そんな風景をぼんやりと眺めながら、僕はペダルを漕ぎ続けた

登った分だけ下り坂のご褒美を期待するが、そんな時に限って道は平坦だったりするもので、やっと現れた下り道は、どんなに全速力で走り降りても上り坂直前で失速した。下りの始まる所から見える次の上り坂は、いつも実物以上に高く見えた。

無心でペダルを踏んだ。すれ違いざまにクラクションをならす車に親指を立てて返事をする余裕すらもなかった。そんな時だった。後ろからやってきたキャンピングカーの運転席から白人のオッサンが顔を出し、声をかけてきた。

「何処に行くんだい?ケープタウン?お前らはクレイジーだ!ちょっと待ってろ!」

そう言って息も絶え絶えの僕に冷えたペットボトルとオレンジを一つ差し出した。

「グッドラック!」

そう言い残して去っていく車の後ろ姿に、僕は力一杯右手の親指を立てた。


遠くにそれなりの高さの岩山が見え始めた時から嫌な予感はしていた。その岩山にまとわりつく細い蛇のような道の麓に辿り着いた時、半ば呆然と立ち尽くした。

ロッジは距離的にはそろそろ着いてもいいはずである。真正面からの狙いすましたかのような風もかなり強くなり始めた頃で、これはかなりの難関だった。必死で10m程進み、自転車を停めてサドルに突っ伏すようにしてよしかかる。

そんな情けない動作を何度繰り返した頃だろうか、両側を岩に挟まれた谷底のような道へと迷い込んでいた。ただでさえ強い風が、岩壁の反射し相まってよりい一層の強風を成している。ようやくその道を抜けた先には長い坂道が続いており、踊りだしたいような気持ちで飛び出したが、前方への加速度が強風で見事相殺され、下りながらペダルを漕がなければならなかった。最早これは純然たるイジメである。責任者はどこか、責任者を呼べ。問いただす必要がある。

「牛ですら車に乗ってんのに、なんでおれはチャリ漕いでんだよ」などと悪態付いていると、ようやく見えてきた休憩所では、無精髭を伸ばしまくった汚い男がベンチに寝ていた。よく見ると相棒のミハラだった。その傍らに八つ当たり気味に自転車を倒し、鳥の糞だらけのコンクリートのベンチに躊躇なく横になった。

「疲れた」、喉が乾き切りその一声さえ口から出てこない。日本では到底起こりえない「渇死」という死に方がこの広い世の中にはあるらしいが、この時の我々はその疑似体験をしているかのようだった。目的地はまだ見えてこず、水は底を尽きた。あとどれほど自転車に乗れば良いのかも分からず、休憩所で消えかけている命の灯火を必死で風から守っている。絶望する気力も湧かないほどだった。


とりあえず水だ、水を手に入れなければ。そう思い立ち、なけなしの体力で路傍に立ち尽くす。かくなる上は僕の十八番・水ヒッチハイクである。車が通る度、両手を大きく降り叫んでみるが、3台連続で停まるどころか加速して目前を過ぎ去っていった

落胆していると、先ほど下ってきた憎き坂道から黒の車が走ってくる。今度こそ、と意気込み、全身全霊で叫び声ともつかぬ魂の咆哮をあげる。すると、10m程通り過ぎたあたりでUターンし、戻ってきてくれたのだ。礼を言おうとひょこひょこ近づくと、中から出てきたのはなんと日本人だった。

「井口くんだよね?初めまして!」

気持ちよく日に焼けた健康的な彼は青木ですと言った。青木クンとは直接の面識は無かったが、facebook上で同じアフリカ旅行者×学生ということもあり連絡を取っていたのだ。

つい先日ザンビアあたりですれ違ってしまい、初対面は帰国後になりそうだねなどとメッセージのやりとりをしていたそんな彼が、水ヒッチハイクをした車に乗っていたのだ。偶然も偶然すぎて却って必然と信じたくなるような事例しび1である。

青木クンはちょっと待ってねと言って車のトランクに閉まったバックパックを漁り、林檎を3つとクッキーを一袋、そしてペットボトルに入った水を取り出した。「これ、あげるよ。頑張って!」、彼は善意と良心の権化であった。

「ケープタウンで。」

そう約束を交わした後、彼は再び車へ乗り込み南の彼方の蜃気楼の中へ一足先に消えていった。走る理由がまた一つ増えた、そんなことを思いながら早速もらった林檎を齧った。酸味のある果汁が喉に染み渡り、生きている心地がした。人生でベスト3に入ると言って過言でない程に、その林檎は美味かった。


結局、目的地であるロッジはそこからさらに10km先のまた一つ山を超えた所にあった。これほどまでに辛い10kmは人生初、といった具合のコンディションで、最後のほうは自転車を押しながら歩いたが、小高い岩山の登りが下りに転じる場所から人工建築物が見えた時の、腹の底が沸騰しているかのようなあの喜びは忘れられない。

それは、土地だけは有り余ってるからか、無駄に広大な敷地の洒落た桃色のロッジだった。枯れ切った荒野のど真ん中とは思えないほど、緑が眩しい芝生が管理されており、奥には例によってプールまであり、まるで天国だった。

キャンプ場も開放しているとの事だったが、想像以上に高額だったため、「夕飯だけ注文し近場で野宿する」案が採用された。この時既に7時を回っており、当初の予定到着時刻である正午には実に7時間も遅れてしまったわけだから、我々が如何にナミビアを舐め切っていたかが察せられる。

食後、暗くなりすぎる前に、と水だけ頂いて重い腰を上げようとすると、白人のオバちゃんが声をかけてきた。

「ケープタウンまで行くの?これから野宿?一部屋貸したげるから泊まっていきなさい」

彼女はここの経営者で、今は宿泊客が少ないから気にすることはないと言う。それだけでも涙が出そうなものだが、部屋に案内された時、感動で不意に一瞬言葉に詰まってしまった。

触らずとも伝わるフカフカのベッド、無駄に思えるほど広く遺体安置所のように清潔なトイレとシャワールーム、TVや備え付けの冷蔵庫まであり、もちろん冷房まで効いているのだ。本来なら一泊4700円だというこの部屋を、素性の分からぬ小汚いアジアの猿二匹に無償で貸し与えるオーナーの懐の深さは、全く以て計り知れない。それはまさしく『粋』であった。


ウィントフックを発ち、既に一週間が経っていた。肌の色や国籍や言葉の違いや、そんなものなどクソ食らえと言わんばかりに、気づけば人々の春の日差しのように温かな親切の手が目の前に差し出され、そしてそれに励まされてここまで来られた。

そんな数々の宝物を思い出しながら、感謝の気持ちを新たに、二週間ぶりのベッドでどこまでも深い眠りに落ちていった


(動画はこちらから)

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