帰国直後に地元新潟のローカル紙「新潟日報」の記者・黒島さんから取材を受けた。医師を志したキッカケやアフリカの1年が自分に与えた影響、そんなオチのない話を数時間語らせてもらい、1月21日の朝刊になんとカラー写真でデカデカと掲載して頂いた。自分でも「誰だこれ?」などと笑ってしまうほど紙面の「僕」はカッコ良く描かれており、正直戸惑いを隠せない感はあるが、周囲からの期待は真摯に受け止めようと思う。例えそれが重かろうと、背負って生きてゆこう、と。
黒島記者に初めてお会いしたのは、中学3年の夏、フィリピンでのことだった。当時、小学校教諭である父がJICAと提携し、クラスの子供2人を引率してフィリピンのほうぼうを訪ねる、というスタディツアーを夏休みに企画していた。僕もそれにノッかり、計2週間弱をフィリピンで過ごした。
父の率いるスタディツアー一行が現地の小学校訪問などをしている前半1週間、僕はマニラ郊外のカロオカン市にいた。父の友人の知り合い、つまり僕にとっては全くの他人の家庭にホームステイをしていた。もちろんフィリピン人家族で、日本語などカタコトも話せない。対する当時の僕も英語など話せない。ジェスチャーにジェスチャーで返すような、傍から見れば漫才のような一週間だったことだろう。
カロオカン滞在中は、家族に1日数時間英語を教えてもらい、地元の少年少女が集まる公園でバスケをし、街をふらふら徘徊し、そんな風に毎日を過ごした。仔細には思い出せないが、ステイ先近所は、お世辞にも良家が立ち並ぶ住宅街、といった雰囲気ではなく、夜な夜な喧嘩の声や窓ガラスへの投石が聞こえてくるような「THE下街」だった。雨水を貯めたドラム缶で頭を洗おうと思ったら、遊泳していた茶羽のゴキブリが僕目がけて飛翔してきたのは、今となっては良い思い出である。
ある日、近所の大学の獣医学部に連れていってもらったこともあった。当時自分は将来獣医になると信じて止まなかった中3の僕には大変刺激的な1日だったのをよく覚えている。寄生虫学の授業に潜り込ませてもらい、そのへんで拾ってきた野良犬の死骸からにょろにょろと蠢く寄生虫を取り出したりした。写真が手元にないのが大変悔やまれる。是非読者諸兄にもお見せしたかった。
・・・と、そんな1週間の後、父率いる一行に合流し、マニラ郊外に広がるゴミ山で活動するNGO団体を訪問した。「スモーキーマウンテン」と呼ばれるその広大なスラム地域は、近代化が進むマニラ市内で排出されたゴミのための廃棄場である。廃棄場、と言っても焼却施設の類はなく、ゴミが次から次へと捨てられ、それが山を為し、その周囲に人々がスラムを形成している地域だ。その大量のゴミの中から再生可能な物を拾い集め専門業者へと運ぶ、そうやってそこに住む人々は、ある意味ゴミに依存して生きている。フィリピンの負の遺産、近代化がもたらした闇の一側面と言えるだろう。
到着し車のドアを開けた瞬間、目を疑い、鼻を疑った。それは生まれて初めて見る「スラム」そのものだった。分別という概念など欠片も存在しないそこでは、プラスチック製品などが燃焼しダイオキシンの有害煙が立ち籠めていた。息をするのも苦しい。到底人が住むべき環境では無かった。目の前に広がる光景は、当時から好きな漫画Hunter×Hunterに登場する「流星街」そのものだった。整然とした高層ビルが立ち並び、欧米ブランドが日本と変わらぬ価格で販売され、サラリーマンの憩いの場であろう緑溢れる小粋な庭園までビルの谷間に設けられているマニラ都市部からは、想像もつかない程の落差。ショックという言葉一つでは到底足りないほどの衝撃は、今でも思い出すだけで震わされるような爪痕を心に刻んだ。「何かしなければならない」とまではっきり思ったわけではないが、医師としての道・国際貢献の道を志すに至ったその後にあたる現在に対する影響は、少なからずあったのだろう。
このスモーキーマウンテン訪問の時に同伴していたのが、黒島記者である。その後先日の取材時までお会いする機会はなかったので、実に7年ぶりの再開というわけだ。本当に人生、どんな風に縁が形を為すか分からぬものである。あまり前向きに思い出したいような記憶ではないので、積極的に語ることは久しくなかったが、取材時にフィリピンの話をし、フラッシュバックした思い・風景がいくつかあったので、記録までに書き留めてみた。
今回の旅の帰り道、当初はインド・フィリピンに寄ろうと考えていた。今もあの場所は当時のままなのか、その風景を見た今の自分は何を思うのか。そんなところに興味があったのだが、残念ながら真反対のメキシコに飛んでしまった。医師になる前にはもう一度、と思っている。
画像は例の新聞記事。黒島さん、感謝です。
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