オギノという男がいる。高校時代の同級生で、同時期に休学・ 世界一周し、 タンザニアではメルー山とキリマンジャロを共に登り、 昨年末は結核にかかり体を張った笑いを提供してくれた。 そんな彼が、3年ぶりに秋田にやってきた。
前回の秋田来訪時、夜通し語り合い生まれたのが「
オギノに会うこと自体はさほど久々でもないので、飲み会は「
そして、 その晩語らった結果、なんとなくまとまった意見があるので、 メモ程度に記してみることにする。題して、「物語と敵」だ。
【物語】
世の中にはスゴい人物がたくさんいる。 その人たちの共通点として1つ挙げられるのは、「そこ」 へ至った経緯に物語性があることだ。
例えば学生の頃のふとした経験が原点となったり、 大きな失敗や挫折が次へ繋がったりと、 そのパターンは様々ではあるが、 往々にして聞いていて納得してしまう理由がある。
これまでの僕は、 そこには必然性の存在が必須であると考えていた。が、 最近になって、僕のような凡人にとって、 物語をあとから組み立てる能力が重要なのでは、 と思い始めた。
もちろん、 多くの人が必然的に導かれたといって過言ではないストーリーを持 っている。けれど、皆が皆、 その分岐点たる経験に立ち会った瞬間に、 全てを受け入れ見越すことができたわけではないのでは、と思うのだ。
逆に、物語を作る方向に行為することは、 何か事を成そうと思った時、有利に働くことは多いだろう。 単に数を打てば後から選択できる物語の多様性は広がるだろうし、 決め打ちすることが物語を円滑に運ぶこともあれば、 時にはフィードバックが未知な方角へ足を向かわせた方が物語に色 が加わるかもしれない。
物語性の選択が、 あるいはその選択の基準を磨くのが、 生きる上で要ると感じている。
【敵】
オギノと僕、そしてミハラは揃って司馬遼太郎「竜馬が行く」 にハマっている。 この歴史小説の魅力をここで長々と語ることはしないが、 端的に言ってしまえば「幕末の志士が総じてイケメン」 というのがこの作品の魅力の1つだ。
主人公の坂本龍馬以外にも、 彼と敵対した人物や、歩みを共にした人物、 主義主張を違えた人物、結局その多くは歴史の中に、 時に無情にも散ってしまったのだが、 その信じるものの正しさ云々の以前に、 とかく真っすぐでイケメンで侍なのだ。
当然、現代の日本にも、侍と呼んで然るべき大人物はいる。
平成と幕末、何がそこまで異なるのか。
敵を知らないと戦はできない。手にする武器や、陣を敷く場所や、必要な仲間の数や、
酔いに任せて書き綴ったが、今の自分に当てはめてみると、
僕の在籍する医学科は6年制なのだが、
今、僕は3年生になった。「やりたいこと」「 目標」が更に高まった、そんな自分にとっての「敵」の存在。 この探求は急務である。
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