2011年10月16日日曜日

楽しさの種類。

アメリカ留学・インド単身放浪を終えてから、楽しさには種類があると考えるようになった。予め断っておくが、これは自分がこの言葉を用いる際に勝手に付加しているイメージである。

それらとは

1.肉体・精神が快と感じる楽しさ
2.学びのある楽しさ

の2種類に大きく分別される。1がfunで表されるとするならば2はinterestingといったところだろうか。

まず1について。この前者の楽しさは一般的に用いられる楽しさの定義に沿ったものである。例示するならば(するまでもないだろうが)飲み会が楽しかったり、友達と遊んで楽しかったり、TVでお笑いを見て楽しかったり、といったようなものがこの1にあたる。至極当然の人間の感情であろう。これは世代によって感じ方に違いもあるだろうが、一般的に娯楽のニュアンスを含む比較的短い期間を指すもののように思う。

対して2は、必ずしも常に1の意味の楽しさが伴うとは限らない、比較的長い期間を経た後に感じられるもので、何かしらの学びをもたらす。例えば、私談ではあるが、自分にとってアメリカ留学・インド放浪は常に笑っていられるようなものではなかった。言葉も文化も通じない異国での生活は、時に涙するほど辛いこともあった。インド放浪も、体調を崩したり騙されたり悲しい現実を目の当たりにしたりと、振り返ってみればむしろキツいことのほうが多かった。

しかし僕は人に「アメリカ(インド)はどうだった?」と聞かれるとき、「楽しかった」と答えることを躊躇わない。

2の楽しさというのはそういう性質のものだ。振り返って考えてみたときに、それが自分の魂にとってプラスになるような経験であった、そういった類の楽しさ。そこには常には快楽的な要素はないが、確実に自身の血肉となるような学びがある。あるいは前者の楽しさが他の経験と共に2の実りある楽しさに統合されるのかもしれない。

先に述べておくが、これらにはどちらがより得が高いだとか、質的に優れているとか、より高尚だとか、そんなことはない。1を感じるような楽しさも大事だし、2を感じるような楽しさも必要だろう。

今僕が問題にしたいのはそのバランスである。
個人的に、自分の知る世界では、若い世代(特に大学生)は1の楽しさを求めすぎているように感じる。決してそれが悪いというわけではない。僕自身バカみたいに飲んだりもするし、カラオケで一晩中歌ったりもする。ただ、それだけを偏重するのは少し違うのではないか、と時々考える。

「大学生のうちしか遊べないからいっぱい遊んどけ」

これは正しいだろう。こんなに社会への責任を放棄して自由に生きることができる期間は人生において他にないだろう。普通。

しかし、本当に貴重な時間をすべて1の遊びに費やしていいのか?
こんなことを僕が言えた義理もないのだが、そういった人々は話していてすごく薄っぺらく感じることがある。惹き付けられるような魅力を感じる人、ものすごい引き出しをもっているような人、そんな人は大抵1と2で両者をバランスよく楽しんでいた人のように思う。

確かに1を求めることは楽だ。考えなくていい。ただただ自分の魂が喜ぶように行為すればいい。2の楽しさを味わうには時として1と反対の経験をせねばなるまい。ただそこから紡ぎだされた学びは、それが自分にとってより苦難の多いものであればあるほど、真に思い出を、ひいては人生を豊かにするように思う。


学びのある楽しさを。

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